文系の僕がプログラミングを始めた理由
みなさまこんにちは。
またもやブログの間隔が空いてしまいました。お久しぶりです。
さて本日は、プログラミングに関するお話です。
近年、日を増すごとに世間からの注目が高まっており関心がある人も多いかと思います。
僕はエンジニアでもなんでもないただのプログラミング初学者ですが、今記事ではなぜバリバリ文系の僕がプログラミングを学ぶようになったのかについてお伝えしたいと思います。
プログラミングに少しでも興味がある方、これから始めてみようかなと思っている方には是非とも読んでいただきたいです。
※記事内には、「プログラミングを学ぼうとする姿勢」を揶揄するような表現が散見されますが、あくまで自虐的に僕のストーリーを語っているだけなので気にせず読んでいただきたいです。学ぶ姿勢を揶揄するような気持ちは全くありません。
なぜプログラミングなのか
いつものごとくなんだか偉そうな言い方になってしまいましたが、僕の場合プログラミングを学ぶにあたって「コレ!」という明確な理由はなく、いろんな要因があってプログラミング学習に至りました。
その要因を挙げると、
・シンプルに、プログラミングができたらカッコ良さそう
・2020年度から小学生でも学び始めるのだから、教養として身につけておきたい
・プログラミングスキルがあると海外で職を手にしやすい(らしい)
・映画『グレート・ハック』に影響されて
だいたいこんな感じです。
僕のイメージだと、プログラミングを学ぶ人は「こんなアプリを作りたい」とか「ITスキルによって問題を解決したい」などといった純粋で高潔な理由で始める人が多そうですが、僕の場合は完全に下心でした。
始めたきっかけ
プログラミング学習を始めた大元のきっかけは、「プログラミングできたらカッコいいんじゃね?」というなんともヘンテコな理由でした。
ドラマ『ブラッディーマンデイ』の三浦春馬のように、パソコンに映し出された漆黒の画面になんだかよくわからない文字をカタカタ打ってたらカッコいいよな〜と思って始めました(笑)
自分でもプログラミングをナメているなと思います(笑)
当初は、プログラミングとはそもそもなんなのか、プログラミングスキルを身につけると何ができるようになるのかも全く理解せずに、とりあえず無料で始められるオンライン学習サイトの『Progate』に登録しJavaを学び始めました。
小学生にできて俺にできない訳がないだろ!
ご存知の通り、2020年度から小学生のカリキュラムにプログラミングが組み込まれます。そうなると、僕より後の世代のほとんどの人はプログラミングの素養を身につけた人ばかり。もちろん、全員がプロフェッショナルなレベルまでプログラミングを身につけることは不可能でしょうが、少なくとも「コードを書いたことがある」という経験は、これからの教養として必要なんじゃないかと思い始めちゃったのです。
これを加速させたのが、いわゆる「意識高い系」の側面を持った僕でした。
「とりまITっしょ!」
僕は意識高い系完全体ではありませんが、意識高い系に片足突っ込んでる系なので、意識高い系ニュースメディアでおなじみの『NewsPicks』などを読んでいると、どうやらIT人材の需要の波が半端じゃないらしいということに気が付きました。
とかく人に影響されやすい性格なので、それらの記事を読んだ僕は、「プログラミングは現代人に必須のものだ!」という思想が過激化してしまい、ますますプログラミングを学ばなきゃいけないという考えに取り憑かれていきます。
1ヶ月で放棄
まあ当然の結果です(笑)
下心満載の動機だったので続けられるモチベーションが保てず、無料で学べる範囲が終了した時点で放棄してしまいました。
(もしも本気だったらお金を払ってでも続けていたはずです。)
突然のプログラミング熱 再燃
プログラミングのことなんてすっかり忘れ、留学先で「将来は絶対に英語圏の国に住みたい。でも、どうすれば海外で働けるんだろう?」という(こちらは純粋な)気持ちから、ネットで検索していました。
大半は、どうやったらビザが取れるのかやワーホリに関するものなど、永住するためにはあまり参考にはならないものでしたが、そんな時ある一つの記事が目に留まりました。
「英語圏の国のほとんどでは(特にアメリカ)は、ホワイトカラーの正社員として日本と同じように働くことは難しい」ということを滔々と語ったその記事には、「もし、働き口があるとすれば、弁護士や会計士、またはエンジニアなどの手に職をつけた確固としたスキルがある人材なのかもしれない」とありました。
全英語学習者の教科書とも言えるAtsueigoさんが公認会計士としてオーストラリアで働いていることもあり、妙に納得させられました。
またもや「影響されやすい僕」の登場ですが、この時は良い方向に影響されている実感がありました。
なぜなら、「英語圏の国(特にイギリス・アイルランド)に住みたい」という明確な目標のもと、その一つの手段としてプログラミングを学ぶということに意義を見出せたからです。
次は映画に影響されて…
そうしてプログラミング熱が再燃した時、たまたま観たNetflix映画『グレート・ハック』に影響を受けて、Pythonを学習し始めることになります。
この映画を簡単に要約すると、数人の主要人物にスポットを当て、イギリスのデータ分析企業であるCambridge AnalyticaがFacebookの顧客情報を不正に利用し、2016年の大統領選挙、そしてイギリスのEU離脱を操作した裏側を暴いていく作品です。
詳しくはネトフリと、
こちらのTEDトークをご覧ください。
もちろん、情報を操作して大衆を扇動しようなんていう悪巧みをする気は一切ありませんが、大国の選挙までをもいとも簡単に変えられてしまうそのテクノロジーの技量と可能性の大きさに深く感銘を受けたのです。
調べてみると、そのデータ分析を行ったのはデータサイエンティストというプロフェッショナルであり、そのデータサイエンスの一部分に使用されるプログラミング言語が先述のPythonであるということがわかりました。
ちなみに、AmazonやNetflixのレコメンデーション機能もこのデータサイエンスの技術が使われています。
しかもこのPythonは、人工知能や機械学習などにも活用されていて、現在かなり必要とされておりその需要は今後さらに伸びていく、と言われるプログラミング言語のようでした。
今はProgateやCourseraなどのオンライン講座を活用してPython、そしてデータサイエンスとは何か、それによって何ができるのかを学んでいる最中であります。
海外移住するという目標のため、そしてデータサイエンスそのものに興味が湧いたため、長い目で見て頑張っていこうと思います。
僕がプログラミングを学び始めた経緯・理由はこんな感じでした。
最後はちょっと雑になってしまいましたが、この記事で書いたものが少しでも読者の皆さんにとってインスピレーションになることを願っております。
それでは!
今後の活動とブログに関するお知らせ
お久しぶりです。
かなり久しぶりの記事になります。約1か月ぶり?ですね。
8月25日に日本に帰国して、そのまま福岡へ直行し兄貴の結婚式に出席したり、別の兄貴の野球の試合を観に行ったり、そのあとは山梨にゼミ合宿に行ったりと、色々とバタバタしておりなかなか更新できませんでした。(というより更新する気が起きませんでした笑)
帰国から約1か月が経ち、だいぶ日本の生活にも慣れてきてやっぱり日本は住みやすい国だな〜と心から実感しています。
とは言っていますが、アイルランドを去るときは「帰りたくない」という気持ちの一心で、本当に本当に寂しかった!ホストファミリーと最後の晩餐を済ませ感謝の気持ちを述べると、ホストマザーがとっても優しい顔でハグをしてくれて、急に寂しさが溢れてきて部屋に戻ると一人で号泣してしまいました笑
そのぐらい寂しかったし、なんなら今でもアイルランドとホストファミリーのことはかなり恋しいです。
まあアイルランドでの思い出は別記事で語ることにして、今回は、留学を終えて今後どのような活動をしていくのかというお話です。
かなりパーソナルな内容で、これを読んでいただいたところで皆さんにとって何の参考にもならないことは重々承知ですが、今回だけは個人的なブログとして書きとめようと思います。
アイルランド留学を終える前、僕の計画は、半年間アイルランドで過ごしたあと、どこかしらの国でインターンとして働こうと思っていました。
インターンをしようと思った理由は、将来海外で働く上で、インターンという形でも海外で働いたことがあるという経験は何らかの形で有利に働くと思ったことと、半年間の語学留学で磨いた英語力をキープし、なおかつ実践する場が欲しかったからです。
最初はインターンができるならどこの国でもいいかなと思っていたのですが、インターンができそうな国を色々調べていくうちに、次第に僕の興味はスタートアップ大国であるイスラエルにしか向かなくなりました。
なぜ僕がイスラエルに興味を持ったのかはまた別記事で詳しくお伝えすることとしますが、大まかに言うと、数々のイノベーションを起こしているスタートアップやベンチャー企業を産んだイスラエルという国、ひいてはそこで働くイスラエル人(ユダヤ人)がどういう考え方やマインドセットを持ち、問題解決をしているのかということを自ら体感し少しでも吸収したいと思っていたからです。
そんなこんなでイスラエルのスタートアップ企業に応募しました。
しかし結果は不採用…
自分としては面接の感触は良かったのですが、僕が働ける期間とその企業が雇える日本人インターン生との折り合いがつかず残念ながら不採用ということを伝えられました。
その企業にはとても行きたかっただけに非常に残念でしたが、とりあえずその企業は諦め、イスラエル国内で他の企業にアプライすることを試みました。
しかし、英語もヘブライ語も十分にできず何の就労経験もない僕には門戸がとても狭く、アプライできるような企業はありませんでした。
ということでイスラエル自体をまるっきり諦め、他の国でインターンをすることに決めました。
がしかし、どんな国のどんな企業を調べても、イスラエルに対する情熱と同じ程度の情熱が芽生えることはなく、次第に「この程度の気持ちで海外インターンに行っても、お金と時間の浪費になるだけで、あまり意味のないものになるんじゃないか?」と思い始めました。
多分その疑念は当たっていて、これまでの僕の人生において、自分が情熱を持てなかったものに対して一生懸命頑張れることは無かったのです。
結局、海外インターンをすること自体をやめました。情熱が持てなかったということに加えて、就活早期化に合わせて就職活動を早めに始めたいことと、別に内定が出てからでも自分でお金貯めてイスラエル行っちゃえばいいじゃんという元も子もないことに気づいたからです笑
ということで、とりあえずは日本で就職活動をします。
そしてそのあと、入社するまでの半年間でまた海外経験をしようと思っています。
なので今後このブログは、海外経験を踏まえた記事ももちろんお伝えしていきますが、就職活動に関する記事もお伝えできればなと思っています。
それではまた次の記事でお会いしましょう
アディオス!
語学留学って本当に英語上達するの? part④
こんにちは。
いよいよこのシリーズは最終章を迎えました。
なぜなら、今日東京に飛び立つから!
とうとう5ヶ月の留学期間が終わってしまったんですね…
非常に悲しい気持ちでいっぱいです。大切な友達やホストファミリーとのお別れは非常に辛く、ここだけの話昨日はちょっぴり泣いてしまいました。
ということで!!
「お前、英語どんくらい伸びたんだ?」
というお話です。
過去記事はこちら。
率直に結果から申し上げますと、全然足りない!
なぜ足りないかという理由をこれからご説明します。
リスニング
四技能の中で最も伸びたうちの一つだと思います。
僕はもともとリスニングが苦手なんですが、今はマーベルなどのセリフが簡単な映画ならほとんど内容を理解できます。
それに加えて、発音する際に生じる単語の語末・語尾の省略なども理解できるようになり、センテンスを一語一句文字起こしできるレベルにはなりました。
ただ、Part3でもお伝えしましたが、やっぱりネイティブとの実際の会話となると難しいものがあります。
もちろん話す相手によりますが、淀みなく会話ができるかと言われればそうではないです。
なんと言っているかわからなくて、もしくは確実には聞き取れなくて、聞き返してしまうことがざらにあります。
今のレベルを例えるならば、TOEICなどの英語検定テストではある程度の点数は取れるけど、実践となると危ういかなという感じです。
しかし成長の実感は確実にあります。
留学当初はホストファザーの言っていることは10%ほどしか理解できませんでしたが、今では60〜70%ほどは理解できるようになりました。
もう5か月あれば、80〜90と伸ばせていけたかと思います。
スピーキング
最も伸びた能力だと思います。
リスニングの伸びもある程度感じましたが、スピーキングはほぼゼロからのスタートだったので伸び幅が格段に違います。
(リスニングは自分でいくらでも練習できますがスピーキングはそうはいかないですからね)
レベル的には、自分の言いたいことはゆっくりではありながらもちゃんと相手に伝えられるぐらいです。
ただ個人的に本当に納得いくレベルではなく、自分の言いたいことは伝えられるんだけれども、喋るスピードは遅いし、文法はたまにおかしいし、ボキャブラリーの幅は狭いし、アクセントや抑揚も日本英語が抜けないしで、最後まで困難を感じていました。
今回は5か月でしたが、もう半年ほどあれば喋るスピードを上げられたんじゃないか、そう思って5か月は短いなと感じました。
英語に慣れてきて、これからまだまだ伸びていくと感じた段階で帰国せねばならなかったのでこれはかなり心残りでした。
リーディング&ライティング
この二技能に関しては特に伸びは感じていません。
というより、自分が伸ばすことを意識していなかったため、そこまで伸びがなかったのかもしれません。
とはいえ、ライティングに関しては少し伸びはあったかと思います。
後半10週間はほとんど毎週エッセイがあり、そのストラクチャーなどは授業で徹底的に教えられたので、留学前よりもまともな文章が書けるようになりました。
語学力の推移はこんな感じです。
総じて、5か月という期間は圧倒的に足りませんでした。
言ったら、5か月では英語に「慣れる」ことしかできず、英語を「自由自在に使う」ことはまだまだ全然難しく、次のレベルにあるなという感じです。
ですから、「英語を喋れるようになりたい!」っていうモチベーションの方には、半年という期間はあまりオススメできないかもしれないです。
もちろん、個人による努力差はあるかと思いますが、絶対的な勉強量により伸びていくのではなく時間とともに相対的に徐々に伸びていくものだと思っているので、最低でも一年という期間は必要だと思います。
半年間の留学は、「海外の生活を体験したい」「英語に慣れて、流暢になるための土台を作りたい」という方には最適です。
僕の目標は残念ながら前者なので、まだまだ時間が必要で、日本にいながら英語をより伸ばしていきたいと思っています。簡単なことではないですが。
(どうやって伸ばしていくかに関してはまた別記事で纏めたいと思います。)
以上、4回にわたり語学力の推移をまとめていきました。
これらの記事が現在留学中の方、そしてこれからの留学を検討している方への指針になれば幸いです。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学
お久しぶりです!
前回のクラクフの記事からだいぶ時間が経っちゃいましたが、今記事ではアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所について書きたいと思います。
今回は、アウシュヴィッツで唯一のアジア人ガイド・中谷さんという方にガイドをお願いし、アウシュヴィッツを見学します。
中谷さんのガイドツアーには20名ぐらいの方が来ていました。
14時からの見学だったのですが少し遅れてしまい、中谷さんと他の日本人のツアー参加者に迷惑をかけてしまいました。笑
大変申し訳ないです。
さて、これからアウシュヴィッツについて色々書いていくわけですが、当然死体の写真などを載せることはありませんが、僕の乏しい文章力でももしかすると気分を害してしまう方がいらっしゃるかもしれないので、先にご忠告させていただきます。
この記事では、まずは中谷さんがガイド中におっしゃったことをそのままお伝えし、その後にテーマごとに僕の個人的な感想を述べていきます。
お前の感想なんていらねー!って方はスキップしてください。
アウシュヴィッツの基本情報
と、その前に、まずはアウシュヴィッツの基本情報を。
ここはWikipediaが最も簡潔に説明してくれているので引用します。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)とは、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[注 1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に作られた。周辺には同様の施設が多数建設されている。
「アウシュヴィッツ」は実はドイツ語名で、ポーランド語では「オシフィエンチム」というのは初めて知りました。
ツアーガイド・中谷さん
先ほども申し上げた通り、アウシュヴィッツにいるツアーガイドでアジア人・日本人のガイドは中谷さんだけです。
英語でのツアーガイドもありますが、日本語が母語であれば、ぜひ中谷さんのガイドでまわって欲しいです。
その方が伝わりやすいと思いますし、中谷さんはアウシュヴィッツ見学においていくつかのテーマを提示してくれて、しばしばそれは日本と関連して説明されるからです。
中谷さんについては、他の方のブログの方が詳しいと思うのであまり掘り下げませんが、一つ言えることはテーマを提示してくれたり日本と絡めて説明してくれるので、色んな視点からアウシュヴィッツのことを考えるきっかけを与えてくれるのが素晴らしいなと思いました。
数で見るホロコースト
アウシュヴィッツには140万人もの人々が収容されました。
そしてそのうちの90万人は、アウシュヴィッツについた瞬間に峻別され、ガス室に送られ殺されました。残りの50万人は強制労働を強いられましたが、結局大戦後に生き残ったのはその10%にあたるわずか5万人だったそうです。
ナチスのホロコースト全体においては、900万人の各収容所に入れられ、そのうち600万人もの人々が命を失ったそうです。
改めて数字を見てみると、その数に驚愕します。
もちろん、「少なければいいのか」という話ではないですが、数はことの重大さを測る上で重要な指標だと思います。
死者は、140万人のうちの135万人、900万人のうちの600万人です。
恐ろしすぎます。ナチスがいかにユダヤという民族を本気で滅ぼそうとしたのかわかります。
ポピュリズムをざっくり説明すると、政治的概念のことで、政治家がエリートに対して強く反発し、その代わりに大衆に直接訴えることを指します。時に、「衆愚政治」とも言われます。
このポピュリズムの問題点は、誰も反対意見を上げず、たとえ反対意見を出したとしても無視されてしまい、全体主義に陥ってしまうことです。
大戦時のナチスも同様です。
ヒトラーは、厳密には独裁者ではありません。
なぜなら、選挙で民衆によって選ばれているからです。
選挙で当選したのちに全権委任法を採択し事実上ヒトラーの独裁になってしまいましたが、あくまで土台にあるのは民主主義なのです。
当時のドイツでは、誰も反対しなかったのです。
これこそが中谷さんが指摘したポピュリズムであり、その危険性です。
アウシュヴィッツにはたくさんの写真が展示されていますが、その中にヒトラーの写真はほとんどないそうです。
それは、ナチスドイツの責任を全てヒトラーに押し付けるのではなく、ホロコーストに対して全く声を上げなかった人たち、戦後に責任を認めなかった「名もなき兵」たちを見直すため、だそうです。
「大衆に対して少数派が意見をすることは勇気がいるが、アウシュヴィッツに来て学び、大衆に意見をできる人になって欲しい」と中谷さんはおっしゃっていました。
しかし、街角でのユダヤに対するヘイトスピーチが20年後には、大虐殺に繋がっていった。
ヨーロッパの教育においては、ヘイトスピーチが20年後どのように発展していくのかを、ナチスホロコーストを用いて学ぶそうです。
これは、世界中の人々にとってクリティカルな話ではないでしょうか。
日本人の中には、韓国人や中国人に対してヘイトスピーチを繰り返す人がオフライン・オンライン共にいますし、逆に韓国人・中国人の中にもそういった人はいるでしょう。
アメリカでは、大統領であるトランプが人種差別的発言を繰り返しています。
イギリスでは、ボリスジョンソンの就任によって、一部のEU離脱過激派は移民に対するヘイトスピーチを加速させています。
こういったヘイトスピーチが20年後にどういう形になっているのか、僕たちは少し真剣に考えないといけないでしょう。
ヨーロッパ・ドイツの歴史教育
ドイツはもちろん、ドイツ以外のヨーロッパ各国においてもナチスホロコーストの影響は大きいそうで、ヨーロッパではホロコーストについて1年間かけて学ぶそうです。
そしてドイツでは、ナチスに関してかなりの時間をかけて学び、大学入学のための試験の歴史科目はほとんどが第一次大戦〜第二次大戦終戦後から出題されるそうです。
これはかなり驚きでした。
僕の高校には非常に優秀な世界史の先生がいましたが、ナチスについて学んだのはせいぜい3時間ほどです。カリキュラムがそうなっているので仕方がありません。
と同時に、日本の戦争教育とはかなり違うなという印象を受けました。
日本の学校では、第二次大戦時の日本の失策や愚策、そして虐殺などに関して学ぶのは少しで、むしろアメリカから原爆を二度落とされたということが強調されている感じがあります。
このあたりの歴史教育の違いが、「しっかりと反省している」と認識され、ユダヤ人によって許されはしないものの恨みや憎しみを表に出されることが少ないドイツと、「反省も謝罪もしていない」と時として認識され「被害者意識」が強く残っている日本との違いかもしれません。
(念の為補足しておきますが、僕はアメリカによる二度の原爆が正しいなんて微塵も思っていません。むしろ、化学兵器によって多くの無実な一般市民を殺し苦しませたその行為はとても卑劣で、ホロコーストとなんら変わりはないと思っています。ただ僕がここで言いたいのは、「原爆を落とされた」ということは別にして、日本人は自らが犯した卑劣な行為・愚策・失策をしっかりと認識し、反省しなければならない、ということです。自分たちは反省しているつもりでも、案外世界からはそう思われていないのが実情です。)
身の回りのグローバル化
「グローバル化」と聞くとついつい壮大なことを想像してしまって、一個人には何もできないと思ってしまいがちですが、「私たちの身の回りにもグローバル化は起きている」と中谷さんはおっしゃいます。
たとえば、東京のコンビニなんかに行くと、店員さんが東南アジア人なんてことはよくあります。そんな時に、「どこから来たの?」などと話しかけてみて、その人の国の言葉を喋ってあげたりすると、その人は「日本に受け入れてもらえた。日本って心地がいいな」と感じてくれるかもしれない。
逆に、これはさっきのヘイトスピーチの話にもつながりますが、「日本に来たんだから日本語を喋って日本の文化に従え」なんてことを言うと、外国人は疎外感を感じ、日本を嫌い、無用な対立に繋がってしまうかもしれない。
中谷さんのこのお話は、特に強く共感できました。
なぜなら、僕はアイルランドに5ヶ月滞在しており、いろんな国を旅して、先ほど述べたような「受け入れてくれる現地人」たちにたくさん会ったからです。
そういう人に出会うと、本当にその国が好きになるし、「受け入れてもらえた」という安心感があります。
僕らにも、市民レベルでグローバル化に貢献できるということを中谷さんは気づかせてくれました。
矛盾を孕んだ人間
この話は、中谷さんがお話してくれたものの中でも特に興味深く、もしかしたら全ての人間がナチスのような残忍性を持ちうるのではないかという恐れを抱きました。
というのは、皆さんもご存知のようにビルケナウではガス室で多くの人々が虐殺され、その遺体は燃やされ、残った骨は粉々に砕かれて、ビルケナウ内にある池か近くの川に流されて捨てられたそうです。
本当に恐ろしい話です。
しかし、それと同時にナチスは、ビルケナウ内に汚水処理場をつくったり木を植えたりして環境をケアする一面もあった。
さらに別の話では、アウシュヴィッツ=ビルケナウでは、戦時中に時間が経つにつれて、売春宿が建つようになったらしいのです。
ナチス兵らはそこに足繁く通っていたそうですが、それを見たアウシュヴィッツの所長は、「私たちは誇り高きナチスドイツ兵なのだから、そういった下品なことはやめろ」と部下に叱ったそうです。
こういった、環境保護に対する姿勢や人としてのモラルを気にしている至って普通の人間(かのように思える)人が、同時に民族洗浄を行っていたのです。
事の大小を問わなければこういった「矛盾性」は誰しもが持っているのではないかと思うと、決して他人事ではないのかもしれません。
障がいを抱える社会
ヨーロッパの教育においては、たとえば脚が不自由な人がある建物に行き、もしそこに階段しかなく、その不自由性を持った人が建物に入ることができなければ、その人に障がいがあるのではなく、建物自体に障がいがあると考えられるようになってきているそうです。
これはそういった不自由性を持っている人への同情からくるものではなく、不自由性を持った人を生かすことができない社会に障がいがあるのだという考えです。
2000年もの間迫害され続け、二次大戦時には民族ごと滅ぼされかけたユダヤに不自由性があるのではなく、その状況を生み出した社会に不自由性があるのです。
「幸せはお金ではない」
中谷さんはアウシュヴィッツでガイドという仕事をしていく上で、ホロコーストを生き残った人々と話す機会があるそうです。
その生き残りの方の一人は、ホロコーストを生き延びたことではなく、収容所において配給されるパンを仲間5人と平等に分け合ったことをいつも誇らしげに話していたそうです。(収容所における食事の配分が均等に分け与えることはなかった。)
「人を生涯幸せにするのはお金などではなく、こういった経験なのかもしれない」と中谷さんはおっしゃっていました。
中谷さんのお話の中で、個人的に印象的だった話は以上になります。
どのお話も、ナチスホロコーストに対する新たな観点でしたし、ホロコーストという’過去のもの’だけではなく、現代にも通ずる貴重なお話をいただけました。
ポーランドに行く機会があれば、ぜひ、アウシュヴィッツを訪れることをお勧めします。これは、歴史好きの人のみにではなく、全人類が知っておくべき、学んでおくべきことであると、個人的には思います。
長々とご覧くださりありがとうございます。
最後にアウシュヴィッツ=ビルケナウの写真を少しだけお見せしてこの記事を終えたいと思います。
ビルケナウ
多くの人々を’運んだ’列車の一部
クラクフ二泊三日 ① クラクフ観光
4週連続海外旅行、ついに最終章はポーランド・クラクフでございます。
4週連続旅のラストであると同時に、留学期間最後の旅になります。
これ以降は、一旦旅はおあずけ。
なぜラストがポーランドなのかというと、ドイツ旅行でダッハウ強制収容所を訪れた際、これはアウシュヴィッツも行かないとダメだ、という気持ちに駆られポーランドで締めくくろうと思いました。
結果的にこの選択は大正解でした。
今回はいつものように時系列でお伝えするのではなく、スポットごとにお伝えしていきたいと思います。
臨場感は無くなりますが、どうしてもアウシュヴィッツの記事を丸々一本書きたかったのでこういう形にしました。
この記事はクラクフ観光についてです。
それでは早速参りましょう!
ヴァヴェル城
中央広場・織物会館
聖マリア教会
聖ペテロ聖パウロ教会
カジミエシュ地区
ヤギェウォ大学
ヴァヴェル城
まずはクラクフの名物であるヴァヴェル城。
なんと、「クラクフ」という都市の名前の起源はヴァヴェル城にあるそうです。
その昔、ヴィスワ河畔の洞窟に住むどう猛な竜に対して、靴職人の弟子クララが、タールと硫酸を染み込ませた羊を竜に飲み込ませ退治しました。
そのクララの名前が街の名前になったそうです。
(クララ→クラクフ)
ヴァヴェル城から眺めるヴィスワ川は最高でした。
中央広場・織物会館
お次はこちらもクラクフ名物・中央広場、そして中央広場に位置する織物会館。
この中央広場が個人的にクラクフで最も素敵だったところです。
馬がそこら中に走っていて、いわゆる私たちが想像する中世を彷彿とさせます。
馬に乗っているのはみなさん女性で、その人たちが馬を操るのかな、珍しいなと思っていたら、実は彼女たちはただの客引きで、いざお客さんを乗せるとなると馬使いのおじさんが来て運転するというなんともうまくできた仕組み笑
昼も夕焼けも夜も、どんな顔を見ても美しい中央広場でした。
写真奥に見えるのが織物会館。
織物だけでなくアクセサリーや食器など様々なクラクフ手作り商品が並んでいました。
聖マリア教会
こちらも中央広場に位置する「ポーランド一美しい教会」。
かなり大きい建物なのでグロツカ通り(クラクフのメイン通り)を歩いているとすぐ気づくと思います。
入館料はなんと5ズロチ。1ユーロちょっとです。
この辺りでもポーランドの物価の安さが垣間見えます。
この聖マリア大聖堂、外見はあまり大したことはないのですが、中に入ってみるとかなりびっくり。
こんなに美しい教会は久々に見ました。
ミュンヘン以来の感動です。
このゴシック様式の教会は14世紀に建築されたそう。
1時間ごとにラッパが演奏されていたのですが、「どう考えても途中だよね」というタイミングで演奏をやめてしまいます。
なんでだろうと思って調べてみると、モンゴル軍が襲来した際に市民に知らせるためにラッパを吹いたラッパ手でしたが、ラッパを吹いている途中に殉職してしまったそうです。
命と引き換えにクラクフの命を守ったこのラッパ手を偲んで、700年余りに及び途中で終了するラッパの演奏を続けているそうです。
聖ペテロ聖パウロ教会
ここはもともと訪れるつもりはなかったのですが、グロツカ通りを歩いているときにたまたま通りがかったので入ってみました。
12使徒の像が目を引きます。
土曜日の夜8時からはここでコンサートが行われていました。
そのコンサートが行われている時、おじさんが教会の前ではチェロ(?)を演奏していました。
クラシック音楽には全く馴染みがない僕ですが、美しい音色だということはわかりました。
カジミエシュ地区
このカジミエシュ地区は、14世紀にカジミエシュ大王という王によってクラクフとは独立してつくられたエリア。
カジミエシュ大王は、世界中から迫害されていたユダヤ人の保護に熱心であり、世界中からユダヤ人がこのカジミエシュ地区に移住してきたようです。
第二次大戦中に一度廃墟と化してしまいましたが、大戦後に再び復興したようです。
おしゃれなカフェや建物がたくさん並んでいました。
またこの地区は、映画『シンドラーのリスト』のシーンに使用されたことでも有名です。
ここでは、ポーランドで最も古いシナゴークに行ってまいりました。
ヤギェウォ大学
ヤギェウォ大学は、ポーランドにある最古の大学であり、スラヴ人によって設立された最初の大学だそうです。
こんな感じでクラクフ観光を終えました。
1日でも十分観光できる大きさの街ですが、本当に満喫したかったら2日間は必要かもしれません。
というのは、ヴァヴェル城や聖マリア教会は大人気で、チケットを購入し中に入るまでそれなりに時間がかかるからです。
今回は残念ながら行くことができませんでしたが、クラクフを観光する際は世界遺産のヴィエリチカ岩塩坑も行くことをオススメします。
クラクフ観光に二日、アウシュヴィッツに一日、ヴィエリチカ岩塩坑に一日で計四日あれば、クラクフを思う存分満喫できるかと思います。
さて、次回は、アウシュヴィッツについてお伝えします。
エディンバラ24時間旅行
4週連続海外旅・第3週目は、スコットランドの首都・エディンバラを訪れました。
旅をしすぎて予算が尽きてきたので、最安値の方法を検討した末、24時間旅行がベストだという決断に至りました。
エディンバラの街の規模的にもこれで十分という予想です。
さて、その24時間旅行の方法ですが、まず土曜日の朝6時にダブリン発のフライトに乗り、帰りは翌日の朝8時の便。
ライアンエアーでこの二つのフライトが最も安かった。
そして出来るだけお金を浮かすために、ホステルなど宿には泊まらず、空港泊をするというなんとも大胆な作戦。我ながらアッパレです。
(のちにこの素敵な作戦を全て台無しにする愚かなことをしてしまうとは思いもしませんでした)
正直、今までの旅の中でダントツでハードでしたのでもう一生やりたくないです。笑
金曜日の夜22時から深夜1時まで自宅で睡眠を取り、そこから空港に向かいます。
地獄の旅の始まりです。
空港では一睡もせずに、飛行機の中で寝たのですが、当然ぐっすり眠れませんでした。むしろ疲れが増しました。
エディンバラ空港に朝7時半に着くと、もうすでにありえないぐらい疲れていました。
「帰りて〜」と何度思ったことか…
とりあえず空港で1時間程休憩し、空港から市内直通のバスに乗って移動します。
中心部に行きたい場合、100番のバスに乗れば真っ直ぐ行けます。
このバスがなかなか心地が良くて、wi-fi完備はもちろんのこと、座席スペースも広くシートもITエンジニアのためのイスみたいに超座り心地が良い。
バスの運ちゃんもチケット売り場のおじさんも優しくてフレンドリーで、最高のスタートでした。
バスに乗ること40分ほどで市街地に到着。
バスの車窓から見えるエディンバラのオールドタウンは、とてつもなく美しかったです。
街全体の美しさで言ったら、これまでポルトやニースの旧市街がベストだったのですが、軽く記録更新されちゃいました。
今まで行ったどの街よりも美しい街並みで、本当にマジでお世辞抜きに感動しました。
中世の建物がそのまま残されている感じで、もう素晴らしい以外の言葉がないです。
さすが世界遺産に登録されているだけあります。
バスを降りて数分のところに、なんかどでかい塔があったのでまずそれをみることに。
2枚目は我ながら良く撮れたと自負しております。
この独特の色味が渋いですね〜
ケルン大聖堂もこんな感じだった。
Livingstoneってこの人の名前なのかな?
と思って調べてみると、デイヴィット・リヴィングストンという、アフリカ大陸を横断した探検家だそう。
ちょっと見えづらいですが、オールドタウンの街並みはこんな感じ。
ショッピングモールのトイレの標識。
スコッツメン。
街中には、スカートを履いたスコッツメンが楽器を演奏しており、スコットランドを美しく演出してくれます。
いたるとこにあった少年?の銅像。
メインストリート
続いては、聖ジャイルズ大聖堂へ。
中は撮影料2ポンド取られるので、払わなかったです笑
どんだけケチなんだよと。
アダムスミスさん。
聖ジャイルズ大聖堂を過ぎて、ずーっと真っ直ぐ行くと、
エディンバラ城に到着。
観光の目玉です。
お城なだけあり、中は結構広かった。
上から見える景色
スコットモニュメントに狙いを定める大砲
グレートホール
世界で一番デカイ大砲らしいです
スコットランドの国旗大好き
午後一時ちょうどに、大砲が発射されます。
これが意外と音が馬鹿でかくてかなりビビりました笑
この兵隊さん(?)の英語がバリバリのスコティッシュアクセントでなんか可愛らしかった。北アイルランドのアクセントによく似ています。(なぜ似ているかはまた今度)
エディンバラ城の後は、
宮殿に行きました。
エリザベス二世もスコットランド遠征中はここに泊まるようです。
宮殿の横にはこんな素敵な丘が。
高台に登ってエディンバラを一望。
オールドタウン天気悪いバージョン
歩き回って疲れたので、ショッピングモールのKFCで日が沈むのを待ちます。
日が沈んだらオールドタウンを少し探索。
タトゥーフェスティバルという音楽祭をやっていたので、人の量がえぐかったです。
最後は、最初に訪れた塔に行って終了。
こんな感じで、ちょくちょく休憩も取りながら主要どころはほとんど観光し、24時間で十分なエディンバラでした。
ただ、ハイランドやスカイ島に行かれる場合は2〜3日は必要かと思います。
カントリーサイド好きな中国人の友達曰く、1週間あっても足りない場合もあるそうです。
観光を楽しんだらもうお別れの時間です。バスで空港へ向かいます。
空港へ着いたのは深夜12時前で、朝8時の便まで耐久レースの始まりです。
深夜はゲートが閉まっているようでビザチェックはまだできず、スタバで時間を潰すことに。
なんとここから朝の7時までほとんど一睡もせず、そこからゲートに向かい、ベンチに座っていました。
…
いつの間にか夢の中にいました。
起きたら、8:15でした。
びっくりして立とうとしましたが、足が痺れ、思いっきり足を捻りずっこけました。
ゲートをみると、もう出発していました。
( ; ; )
せっかく、一番安い方法で旅行するために朝の便をとったのに…
せっかくホステル代も浮かしたのに…
ライアンエアーの職員さんに「どうすればいいですか?」と半泣きで言うと、「どうしようもないから再手配するしかないわよ」と優しく言ってくれました。
ただ再手配の値段は全然優しくなかった…
次の日は学校だったのでどうしてもその日中に帰れねばならず、最安値の航空券は4万円でした笑
4万円あったら高級ホテルで一泊できた…
もう本当に自分のアホさをこれだけ呪った時はありません。
なぜスタバにいるとき寝なかったのか、本当に理解不能です。
何かするわけでもなくただボーッとし、時間と体力を無駄にしただけでした。
もう一生安旅はしません。
ものすごく反省しています。
まあ今考えればもういい思い出…
スコットランド・エディンバラ素晴らしかったので、ぜひお勧めしますよ〜
(無茶なスケジュールは避けてくださいね😁)
では!
写真を撮ることの意味
今日は、ちょっと力を抜いて他愛もないことについて書きます笑
他愛もないっちゃ他愛もないんですが、意外と人生において重要だったりもするなと感じることについてです。
タイトルにもあるように、テーマは写真。
インスタグラムが世に普及して、世界中の人々がその虜になる中で、「美しい写真を撮る」という行為はプロの写真家のみならず、一般の人々にも普及しています。
僕はこれまで、観光などをして美しい景色や建物を見るたびにパシャパシャ写真を撮る人をバカにしていました。(ごめんなさい笑)
「そんなに写真を撮って何になるんだ」「写真ばっか撮ってちゃ、美しい景色を存分に楽しめないだろ」「どうせインスタのためにやってるんでしょ、ハイハイ」といった感じで、もはやバカにするどころか軽蔑すらしていたかもしれません笑
ところが、世界中を旅するようになって、その写真の重要性に気づいたのです。
世に言う「インスタ女子」のように、僕が写真をたくさん撮るようになったのは、このブログにできるだけ写真を投稿し発信していきたかったからです笑
動機はインスタ女子と何ら変わりません笑
出来るだけ美しい写真を撮ろうと悪戦苦闘しているうちに、あることに気がつきました。それは、「写真撮ってる方が景色だったり建物だったりを楽しめね?」ってことです。
綺麗に写真を撮ろうとするとき、まずは対象物をしっかり観察して、どの部分が一番美しいか、どこから写真を撮れば最も’バエル’のかを常に気にしています。
(なぜ気にするのかというと、当然不恰好な写真よりも美しい写真の方が読者は惹きつけられるからです。)
そうやって試行錯誤していくうちに、その場に何十分も居座り、じっくりと観察し、ある意味ではその対象物のエキスパートになることができます。
ボーッと見ているだけでは気づけない、建物の精緻な造りだったり風景の鮮やかさだったりに気づけるわけです。
これが写真を撮ることの素晴らしさだと思います。
写真をずっと撮っていると、レンズ越しにしか対象を享受できず、肉眼で楽しめていないかのように思われます。
しかし、それは全く逆なんですね。
当然、僕たち’グラマー’も肉眼で見ていないわけではありません。
肉眼とレンズ越しの両方で楽しんでいるのです。
ですから、以前の僕はまったく見当違いのことを思っていたのですね笑
写真を撮ることの意味はもう一つあって、それは記録に残さないと忘れちゃうからです。
よほど記憶力の良い人でない限り、かなり印象的なものを除いては、かなりのことは記憶場から消えてしまいます。
忘れるほどのことは取るに足らない、なんてことを言う人もいますが、それはまったくの誤りで、覚えておきたいことでも忘れてしまうのが人間です。
目で見たもの、少しでも感動したものを記録として残しておきたい、それはこのブログを始めた理由にも共通しています。
後から自分の写真を見返してみると、まるでまだそこにいるような感覚になれるし、いつまでも忘れられることはありません。
こういった点からも、写真を撮ることってすごく重要なんです!
普段なかなか写真を撮らない人、特にめんどくさがりやな男性諸君、この記事をきっかけにして何か心が動かされたものは少しでも写真に残すことをオススメします。
今日は、そんな他愛もない取るに足らないお話でした!笑
次回は、波乱万丈(?)スコットランド旅行についてお伝えします!